【引用文】
「前田家では本多政重を中心に協議し、ともかくこのことを「ご隠居」である高岡城住いの利長に報じた。利長からおりかえし返事が来て、
「すべて安房にまかせる。よきようにはからえ」
と、いってきた。この当時、諸侯随一の賢者といわれた利長ほどの男が、政重程度の男にこれほどの大事の処理をまかせきってしまうというのは奇妙だが、じつはそこが利長の賢さであるといえるだろう。本多政重は家康の代理人のような男であり、事が事だけに一切この男にまかせきってしまうほうが、江戸の覚えが良い。
(それが、加賀の政治だ)
と、利長は内心やるせない思いで、そのように自分に言いきかせた。
-利長は本来、天下の半分は斬りとれるほどの男だ。
と、家康がかつていったことがある。」
【時代背景】
上の文章の背景としては、すでに豊臣秀吉は亡くなっているがまだ豊臣の世の時代である。
しかし実権は徳川家康がにぎっており、これから家康の悪謀がたたみかけるように炸裂しまくろうとしている。
【要約】
加賀百万石で知られる前田家はこのとき実質上、家康の監視下におかれており、家康の代役ともいえる本多政重(安房)が家康方より来ており前田家の身分上の家来となっている。なおかつ前田家には依然として豊臣方より家康追放ともとるべき要請がきている。要は板ばさみである。この難題をトップである前田利長は家来であり家康の身代わりともいえる本多政重に一任した。
【解説】
この天下の半分を斬りとれるといわれた前田利長は時代の流れつまり空気を読んだのです。すでに豊臣家は秀頼でなくその母の淀君が実権を握り有能な武将の妙案、諫言を退ける有様で行く末短しと感じていました。今は逆らう時期ではない、前田家を保存、維持継続させる一番の踏ん張りどころだと。そして、豊臣家からきた家康討伐要請という難題を自分でなく前田家ともとれる家康のスパイ本多政重に一任することがもっともシンプルでかつ有効で確実であると見極めたのでしょう。この賢い処世術がのちに明治まで続く加賀前田家を支えたのです。
※画像は前田家の家紋「梅鉢」です。
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