【引用文】
家康自身が甲冑を着て出かけるわけではなかったが、これが作法であり、いわば景気づけであった。
家康は茶をすすりながら、ふと、「市正(いちのかみ)には、気の毒したな」
と、本多正純にいった。
こういうあたりがこの謀略家の人臭いところで、かれのこの情義ぶかさにひかれて
ひとびとはついてきていた。もっとも人臭いというより、他人に情義ぶかいということじたいが、大将たるものの資質で、かれ自身、ながいあいだそのように自己教育し てきた。それが、政治的効果のある場面々々でごく自然に出るように家康はなっているのである。家康にとって人情も酷薄さもすべて政治であったが、かといって不自然 でなく、かれ自身が作為しているわけでもない。そういう人間になってしまっている点、つまりかれの先蹤者(せんしょうしゃ)である信長や秀吉があれほどの政治家でありながらなおなまな自然人であったことにひきかえ、家康はかれらのように天才でなかっただけに自分を一個の機関に育てあげ、まるで政治で作られた人間のようになってしまっていた。 「且元兄弟は、生きているだろうか」
と、家康はつぶやいた。
【時代背景】
上の文章の背景としては、すでに豊臣秀吉は亡くなっているがまだ豊臣の世の時代である。
しかし実権は徳川家康がにぎっており、これから家康の悪謀がたたみかけるように炸裂しまくろうとしている。大坂の陣の直前である。
【要約】
片桐且元(いちのかみ)は元々豊臣家の七本槍の一人でこのころは豊臣家の重鎮として働いていた。しかし徳川家康の度重なる謀略にはめられ且元自ら豊臣家を裏切るに至る。上記はその謀略プロセスからうかがえる家康の過ごしてきた生き様を表している。
【解説】
家康は策略、謀略をあたえてくれる軍師をもたず生きてきた。いなかったというわけではなく家康自らが軍師の役割も自然とこなしていて軍師を必要としなかった。というのが正しい。幼いころから人質暮らしで常に肩身の狭い思いをしてきた。そのせいもあり人というものをいやというほど観察し自分はどうふるまえばよいかを考え実践しつづけて骨の髄までしみこませてきている。本来我慢強く人の気持ちの分かる優しい心の持ち主であったにちがいなく当然自然と人情味も帯びてひとびとはついてきた。人の気持ちがわかるがゆえ優しくもなれるしいくつもの策も湯水の如くでてくる。人との関わりのなんたるかを知り尽くし人情深さをもったこの家康の特徴は生きるか死ぬかの戦国時代に最も際立った点であり、且つ天下を取る最も有効な武器となった。
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